栗原電鉄は東北本線石越駅から三井金属細倉鉱業所のある細倉までを結んでいた。
全長26.2km、軌間1067mmで全線が電化されていた。
開業は栗原鉄道として大正7年12月15日に創立した。
大正10年12月20日に石越~沢辺間が軌道法に則って軌間762㎜で開業した。
開業時は蒸気機関車による運行だった。
その後路線は大正11年12月17日に岩ケ崎までの7.8kmを延長した。
昭和17年12月1日に軌道法から地方鉄道法に変更の上、岩ケ崎~細倉鉱山までを延長して全線26.2kmが開業した。
近代化にも積極的で昭和25年9月21日には全線が直流750Vで電化された。
昭和30年9月27日には改軌を行い、762㎜の軌間を1067㎜に変更した。
この改軌は列車の運行を止めることなく一晩で行われた。
列車の平常運行を行いながら1067㎜の線路を敷設、転てつ機の部分の交換は切り替え日に行った。
車両限界の大きさも変更となり、トンネルの拡幅工事も行なわれた。
この工事も列車を運行しながら行なわれた。
この改軌によって国鉄の貨車が直接乗りれできることになり、細倉駅での貨物の積み替えの手間がなくなった。
昭和30年11月2日には社名を栗原電鉄株式会社に名称変更を行った。
M15形 |
M151~M153の3両が在籍した 昭和30年ナニワ工機製の15m車 栗原電鉄の改軌時に新製された 主電動機は40kwを4基装備 台車は住友金属製FS21 |
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C15形 |
C151・C152の2両が在籍した M15ど同じような車体をした制御車で、M15とペアを組んで増結用として活躍した 片運転台だったが、運転台が無い側も非貫通だった 栗原電鉄入線時はC14形C141・C142だった C14は車体を京阪神急行から、台車は西武鉄道から購入したTR14を昭和31年1月にナニワ工機で組み合わせて製作された 車体は大正12年12月に川崎造船所で製作された木造車だった 昭和35年10月にC141・36年10月にC142の車体を鋼体化してM15と同等のものとしてC151・C152となった 昭和52年に台車をTR11Aに交換した |
M17形・C17形 |
M171とC171が在籍した 昭和51年に西武鉄道クモハ375・376の2両を譲受して改造して入線した クモハ375はクハ化されてC171に、クモハ376は750V化されてM171となった 2両は常にペアを組んでいたが、活躍する機会は少なかった 昭和62年に廃車となった |
M18形 |
M181が在籍した 大正15年10月汽車会社製の木造車 西武鉄道モハ204として製作された 栗原電鉄には改軌時の昭和30年9月にM161として入線した 昭和34年8月に車体の鋼体化を西武所沢工場で行いM181となった 主電動機は85kwを4基装備 |
ED20形 |
ED201~ED203の3両が在籍した 昭和25年8月中日本重工(三菱三原製作所)製のD型電機機関車 栗原電鉄が軌間762㎜だった時にED18形として活躍していた 改軌の際に台車枠を広げる改造を行った 昭和30年にED181・2、昭和32年3月にED183を改造してED20形になった 自重20t 主電動機は40kw×4 直接制御だった 貨物運行の減少によりED202が昭和58年に廃車となった 昭和62年には貨物輸送廃止に伴いED203が廃車となった |
ED35形 |
ED351が在籍した
昭和30年東洋工機製のD型電機機関車 東武鉄道日光軌道線用のED611として製作された 主電動機は国鉄で廃車となった電気式気動車キハ43000形の再利用だった 昭和43年東武鉄道日光軌道線の廃止後、昭和44年栗原電鉄に入線した 自重35t 主電動機は80kw×4 台車はDT12系 |
昭和62年当時は他にDB10形とワフ7形の在籍があった
また、平成3年にM18形M182・183の入線があった
栗原電鉄には貨物輸送が廃止となる直前の昭和62年1月に訪問した。
訪問した翌月の昭和62年2月に細倉鉱山は閉山となり、貨物輸送は廃止となった。
貨物輸送の廃止は栗原電鉄にとって痛手となった。
利用客は少なく、旅客輸送の収入だけでは経営は厳しかった。
私たちが乗車した単行の列車も終点の細倉までの乗客はごく僅かだったと記憶している。
その後、栗原電鉄の経営は三菱マテリアルから第3セクターに替わり、くりはら田園鉄道に社名が変わった。
電化していた路線は非電化にして極限まで経営を切り詰めた。
閉山となった細倉鉱山は細倉マインパークとなった。
くりはら田園鉄道は細倉マインパークを観光資源として、観光路線への変身を図った。
しかし経営は好転することなく、平成19年に廃止となった。